遠い寓話。かつて、そこは人魚姫の海だった。幾星霜が過ぎ去り、やがて海は湖へと姿を変え、人魚姫はいつしか死んでしまった。流れのない海で彼女は生きられなかったのだ。僕は朽ちていくエメラルドグリーンの鱗を思い浮かべた。そこには今でも足のない骨が沈んでいるのだと、誰かが言っていた。僕が湖に落ちた時、悲しい歌声を聴いた。美しくも悲しい、潮騒のような。溺れているのも忘れるほどに。残酷なほど綺麗だった。気付けば、草叢の上に寝かされていて、湖面を滑るように美しい鱗の魚が緑青の水底へ姿を消した。あれはきっと、人魚姫の生まれ変わりなのだ、と父に話せば静かに首を振って微笑んだ。あれは人魚姫を愛した王子なのだ。人魚姫を愛するが故、華やかな宮殿での生活も絶世の姫君も捨て去り、白銀の魚に姿を変えた王子だったが、彼女は王子を遺して逝ってしまった。彼はもう人間に戻ることも出来ない。ひとり残された王子は、人魚姫の亡骸に寄り添いながら、光も届かぬ水底で終わらない夜を彷徨い続ける。姫が寂しくないように時折優しい子守唄を歌ってはもう流れぬ涙を、泡に変えて吐き出す。―――悲しいね、と呟くと、いや愛しい話だよ、と父は笑みを深めた。そして、永遠を模倣した寂寞の湖底に沈む彼を瞼の裏に思い浮かべた。この水底にあるのは、悲しいばかりの永遠だ。


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